たとえばひとつの戦闘機があったとして、それを見て「カッコいい!」と思う人もいれば、「戦争に使われた道具だ」「あれでたくさんの人が死んだんだ」と眉をひそめ、悲しい気持ちになる人もいるでしょう。
私はどちらかというと後者の方の人間ですが、戦闘機自体には物体としての意味しかなく、それを見せられたときの文脈あるいは見せた人の性質によって、あるいは見る人それぞれの主観によって、その戦闘機の意味づけは変わってくるわけです。
そういう意味では戦闘機も「アート」と言えなくもない。アートって卓越した技術や驚くべき手法によって成り立っているものだけではなく、昔からジャーナリズムとしての側面も持ってきた。ような気もする。「ヘンタイ美術館」にもそんな作品出てきた気がする。私のわずかなアート脳が久しぶりに起き上がった体験をしてきました。あいちトリエンナーレです。
実は弊社こやま淳子事務所が初めてスポンサードをした美術展でした。
(ちなみに同じくスポンサーの中川淳一郎と一緒に行きました)
津田大介さんが総合監督になり、アート業界の「ジェンダーギャップをなくす」ため、参加アーチストの男女比を半々に。その主旨に賛同して(ま、なんかなれそうな金額設定だったこともあり)、スポンサーになってみたわけですが、あの頃はまさかこんな風にこの美術展が話題になるとは思っていなかった…。
そう、あれです。オープンと同時に「慰安婦像」「昭和天皇の御影を焼いた映像」を展示しているということで炎上し、3日で取りやめになった「表現の不自由展」。
私はオープニングレセプションに行けなかったので、この表現の不自由展を見ることができなかったのですが(いま思うと行っておけばよかった)、弊社にも抗議のメールが5通ほど来ました。正直、8月頭はスポンサードしたことも忘れていた私。この抗議のメールでそんなことが起こっていることを知りました。
あれですね、ああいうのって、はたから見ていると「なんですぐ取りやめちゃうんだろう」「毅然と戦わないとダメでしょう」なんて思っちゃいそうですが、自分に来ると、けっこう不気味で怖いものです。
しかも慰安婦像。そりゃそんなもの出したらそういう顛末になるでしょうよ。津田さん、どうしちゃったの?
とまず思いました。
中止になったという一報が来たときは、そりゃそうだよね、そうでしょうよ。と思いました。
京都の事件もあった後だし、一人頭のおかしい人がいるだけで大惨事だって起こりかねない。人の命より大事なアートなんてある?と思いました。
ま、もしかしてそれも含めて「表現の不自由展」っていうオチなのかな?っていうことも頭をかすめました。
「あんなのアートじゃないよね」と言う友人もいました。
「すぐに取り下げちゃうなんて情けない」という友人もいました。
「もっと右寄りの作品も出しておけばバランス取れてよかったのに」という友人もいました。
どれももっともだと思いました。
けれど実際、あいちトリエンナーレに行って見ると、トリエンナーレの展示は思った以上にジャーナリズムなものが多く、ああここにその展示を置きたいと思った気持ちは、わからなくもないなと。いろんな国のアーティストが、いろんな国の政治的主張の入った表現を展示していて、なのになぜ韓国と日本のものだけタブー視しなければならないんだろう。もしもそれが目の前にあったとしたら、「いやいやこれはやめておこう」という判断は、果たしてアートの精神として正しいのだろうか。
ま、私のアート脳は本当にわずかですし、知識もないのですが、でもぼんやりとそんなことを思いました。
津田大介さんのインタビューを読むと、慰安婦像の作者は、あの像に韓国政府への批判の気持ちも込めているのだと言います。
表現の不自由展中止を聞いて、様々なアーティストが抗議をし、参加アーティストも作品を取り下げると言ってたりするそうです。
同じ「慰安婦像」でも、韓国が日本を攻撃する材料だと思う人もいれば、日本が犯してしまった悲しい歴史だと思う人もいる。戦争が引き起こす人間の歪みだと思う人もいるし、女性が暴力的に扱われてきたことへの訴えだと思う人もいる。海外のアーティストからは、いったいどんな風に見えているのでしょうか。
あいちトリエンナーレ、素晴らしい展示が多かったので、またそれについては書きたいと思います。